原爆死没者慰霊碑の中に納められた原爆死没者名簿にも、3人の名はある。
2016年11月25日閲覧。
広島市では原爆供養塔の遺骨のうち、氏名が判明して遺族不明の遺骨を「原爆供養塔納骨名簿」として毎年7月に公表しており 、その内容は佐伯が供養塔の納骨堂で独力で書き取ったノートをもとに作られている。
このニュースを聞くとき、原爆で無念のうちに亡くなった方々の縁つながりの方が一人でもわからないかとの思いがつのり目頭が熱くなるのですが、恥ずかしい事に(わたしは)2006年から報道の内容をきちんとみるようになりましたが、2006年が826名の方々だったのが今(2009)年は820名となっていました。
遺骨すらない力さんは、通っていた広島市立造船工業学校の慰霊碑にも名前がある。
10-17• (原爆供養塔納骨名簿) -遺族を捜しています- [PR]. 「原爆供養塔を掃除して四十年」『致知』第291号、、1999年10月、。
その数は100冊近くに昇った。
4-5• 例えば、佐伯さんは、肉親を探しているとき、自分の家族のことばかり考えて、まだ虫の息にあるほかの誰かの体を踏みつけながら歩いたことを、自戒をこめて語っています。 昨年3月末時点で判明している45年末時点の死者数は8万9025人。
4その姿勢が行政を動かし、多くの遺骨の身元が判明した。
うち遺族が判明したものと、原爆死没者の遺骨だが、身元が特定されていないものが1620人分ある。
原爆投下後の8月下旬、久さんが江田島の海軍兵学校から戻ると、脩さんが経営していた「高橋写真館」はなくなっていた。
2017年10月5日閲覧。 13体以上とみられ、その後に山口県原爆被爆者支援センターゆだ苑が建てた「原爆死没者之碑」に納められた。
「」『中国新聞』、2000年8月4日。
毎月6日は被爆による死没者たちの月命日として、僧を呼んで供養塔の前で供養することを慣わしとし 、8月5日の夜には供養塔のそばでろうそくを灯してを勤めた。
2016年. , pp. 遺族を特定する手掛かりにならないか。
約14万人とされる「原爆死没者」でも、「被爆者」でもない。 (昭和14年)に結婚して佐伯姓となり、翌々年の(昭和16年)に長男が誕生した。 「約7万体」のごく一部ではあるが、名前のある遺骨も地下納骨室で眠っている。
29「ヒロシマに歳はない 戦争通じ反差別思考を 語り部の佐伯さん(広島市)講演」『』高知新聞社、1998年6月21日、朝刊、24面。
市は2005年からホームページにも名簿を掲載している。
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて2月末から臨時休館したため、実質11か月での記録更新である。
名簿の「麓仁和子」さんと同姓同名が、1995年に東京都八王子市の「被爆体験を語り継ぐ会」が刊行した証言集にあった。
根拠法は「行旅病人および行旅死亡人取扱法じゃないかと」。
1985(昭和60)年に全国発送をはじめました。
(昭和55年)にの松原市立布忍小学校が修学旅行で佐伯のもとを訪れた際、同校の音楽教諭・中島智子によれば、佐伯は「体験を誇張して語る被爆者もいる」「作り話にしてはいけない」「真実を話さなければならない」といって、自室の壁面はすべて本棚で、床から天井に至るまで原爆関係の資料がびっしりと詰まっていたという。 ポスターは区役所やJR広島駅前など市内の192カ所に掲示。
15だが久さんは、原爆によって家族とふるさとを奪われた「原爆犠牲者」の一人だ。
参考文献 [ ]• 久美子さんは言う。
調査範囲を広げ、全国で唯一見つかったのが、岡山県内の正則さん宅だった。
近くの原爆供養塔を訪れ、静かに手を合わせた。 広島市西区の大木久美子さん(61)は今月13日、10月末に91歳で亡くなった父・高橋久さんの遺骨を先祖代々の墓に納めた。 100-103• 「子供二人と妹を道連れにしたことは、悔しくて悔しくて堪(たま)らない。
16写真館兼実家は跡形もなくなくなったが、脩さんが親戚たちに配っていた写真が、戦後久さんのもとにたくさん戻ってきたとみられる。
遺骨返還後、ほどなく入院した久さんの病院の枕元には、思い出の家族写真が2枚置かれていた。
2016年11月13日時点の [ ]よりアーカイブ。